take me to church セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣
やっと「人間」になれた気がする
やっと「まとも」になれた気がする
ポルーニンのドキュメンタリー
「期待通りの王道」
重圧に晒され続け、攻撃的な方法で自由を求め、
自滅し傷だらけでもまだ牙をむき、
救われたがっている若く美しい天才。
ジャンルに当てはめるなら家族モノのつくり、特別な一人の人間として成熟し、自立していくセルゲイが大画面に映っている。
各種エネルギードリンクや、心臓の薬まで飲んで常に最高であるべく自分を追い込み舞台に立つセルゲイ、至上のダンサーだった。そりゃあ、二年先のチケットも売れる。
自己のすべてを出し切ること、バレエとの闘争を終わらせることを決意したセルゲイも、想像以上にすばらしかった。
映画館の大画面でみる、Take Me to Church
過去の自分を、許せるような
並行世界なんていらないと心から思えるような
ヌレエフの再来ともいわれる彼による、圧倒的なダンス
驚異のダンサー
ダンサーというものは、もう。
みていて、わたしはなんでこんな個人的な、彼のプライベートをのぞいているんだろう、こんなふうに彼のこと好奇心から消費して
「プライバシーの大いなる侵害は、累積的に私たちの無力感を引き起こす効果がある」
という本で読んだばかりの文句を思い出した。わたしたちは、大義名分のために、うつくしいものを享受するために、誰にどんな犠牲を払わせて平気でいるんだろう。
スキャンダラスなこの天才は、とほうもなく真っ直ぐな少年のまま大人になり、常に常に闘う人生であったため、目標を見失ったとき、精神のバランスを崩す。
そりゃあもう誰に責められるようなことでもない、人間としてしごく当然のことだ。
彼の歩んできた少年時代、ダンスのために払ってきた大きな犠牲、そして手に入れた力、恐ろしいほどの美と身体にかかる負荷、
さらにそれに対して払われる報酬の少なさと、蓄積する疲労を思えば。
セルゲイに罪があるなら、それは「わたしたち」の罪だ。
そう、みていて熱くなるものがある。
彼に期待し、美を欲しがったのは彼の家族だけじゃない。口だけ開けてエサを待つ「大衆」と、その図を操作してつくりあげる「マスコミ」。ほんとうなら、バッシングなんておかしなことなのに、いつの世も繰り返すこの型はなんなのだろう。
そろそろ、そういうの変われるんじゃないだろうか、この情報化社会への変容と一緒に、変わらないと。ちいさな改革のパワーと可能性が、セルゲイから、このドキュメンタリーから、感じられる。
なんとなく、次世代の作りってかんじのするドキュメンタリー。ララランド以降の、なんていうか。SNSにいわれるような特徴、 ある種のミュートをかけて、自分の伝えたい意見を伝えたいように伝えるやり方。それはいい面悪い面あるだろうけれど、わたしはすきで、
これはきっとなにかからの反動によるなにかへの革命、権力を持たない側からであれば、「正当な」力の振るい方。そういう時期は、あったほうがいいとおもう。多少の偏りを恐れるよりも、進む方に意味と多様性を感じる。表現としては、わたしは。
セルゲイ、共産圏の貧しい家庭に生まれて、家族の多大な犠牲による仕送りでバレエを学び、…
ちょっとネットを引けば、わかりやすいいい記事がたくさん出てくるから、割愛。
このドキュメンタリーはそもそも、ヌレエフの伝記映画を撮るためにダンサーを探していた、その候補にセルゲイが挙がったことから持ち上がった企画だそう。
ヌレエフ役は監督の意向でなくなったけど、一年以上交渉を経て、信頼関係を得、撮りためた映像。幼い頃から家族で、自分で撮っていたホームビデオの映像もたくさんあって、すごくいい。
SNS世代、映像で大衆に自分を晒す意識、ちょっとちがうのかもしれない。見事な使いよう。
ハワイで撮ったんですって。
カメラを持つ手が、セルゲイに圧倒されてる。なぜそこで上に振るんだよと思うが、こんなにいきなり跳ばれたら、そうもなるんだろう。
最近毎日見てる。
歌詞もすごくいい。多義的な解釈が可能で、同性愛に対する抑圧をテーマにしたPVも。