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Starring:my name

ごらんになりましたか

この世界の片隅に 感想-子供時代のおしまいとすずちゃんの左手

映画

やわらかな光と淡い色味の、さらさらしていたり、ぬらぬらと動いたりする絵。絵によって表現される様をたくさんみた、という満足感があった。

海の、椿の花の、潮干狩りの浜辺の、山の、見下ろす街の、美しい風景。草花の、虫達の、自然の描写。(昔の日本の自然を映画で見て、現実味があってうつくしいと感じたとき、これは原発以前の風景だ…などおもってしまう。この話の場合、普段の自分がつい思いがちなこの感想をどうしたものかと戸惑ってしまう。)

中でも強く印象に残ったのは、手の描写だ。人体のバランスとして、見慣れたアニメの絵と比べると、手と足が大きく描かれている。この手が、よく動くのだ。持つ、掴む、握る、撫でる、泳ぐ。主要人物だけでなく、たとえば行列に並ぶたくさんの人たちの手も、しっかり力強く描かれている。その手で絵を描き米を研ぎ、もんぺを縫う。日々の仕事は、この手によって繰り返される。愛しい相手に触れ、会話や状況に乗じて動き、感情の代弁もする。毎日が手仕事の連続である庶民の生活の中の、いつもの手。出てくる人たちはみんな働き者だった。第三者からみたときにはそうでないといけない時代の空気、働かざるをえなかった手なのかもしれない。

「上から目線で人の暮しを判じるような仕事はしない」と決めていた花森安治今和次郎が、自身もひとりの庶民であることの証明として愛用していたという「ジャンパー」のように。暮しの主役は庶民であること、その庶民の暮らしを描くんだという意志を表す「手」の表現。今よりずっと身体を使う仕事の多かった頃の日々の生活を表すのに、手は大きな効果がある。演出の記号として手を重点的に使うのは、大変な労力だったのではと思う。立ったり座ったりという、日常の身体の動作がしっかり描かれているということでもある。

美術館で絵をみていると、手だけ描いていない状態のものがたくさんある。顔だけしっかり描いて手を含む他のパーツはぼんやりというのももちろんあるが、手首までしっかり描いているのに手だけ全くないとかも。不思議に思って絵描きにたずねてみたことがある。その時のその子の答えは単純明快で、手は描くのが難しいから、だそうだ。立体的な仕草は奥行きを出すのが難しく、表現をつけようとすればその幅は広くポーズの選択肢がありすぎるのもあって、よく描けないうちや面倒な時は省略しがちになったり、時間切れで描ききれなかったりするそうだ。画竜点睛の目みたいなもので、思うように描くことが難しいパーツなのかなと話を聞いていた。もちろん逆に、本番的な作品に臨む前に手のいろんなポーズをたくさん練習するということもある。役者の仕事でもそうだろうが、絵の中の手に一枚一枚演技をつけるというのは大変そうだ。生き生きとした手の動きをたくさんみることができて、たのしかった。人は、手でいろんなものをつくることができるのだ。仕事も、遊びも、絵を描くことや音楽を奏でることも。そして、当たり前だったその環境は突然奪われることもある。

 

前情報を取らずに映画館に来たわたしでも、すずの生活を眺めているだけではいられない。最低限のことはわかってきてしまう。このあと、戦艦大和はどうなるか。8月6日の広島に、なにが起きるか。すずの妹の痣は治るのか。登場人物は気付いていないけれども、みている側はこれから起こる出来事を知っている。

竹取物語かぐや姫が月に帰ってしまうように、変えられない結末として、それは起こる。何に向かって話が進んでいるのかをあらかじめ承知した状態であることで、日常のささやかな感情描写に目が行きやすくなる。ハラハラし、思いやりながら、すずたちの暮しを丁寧に追うことができる。当時の時代背景と現代の感受性とを融合させながら、自分の立ち位置や感覚に鋭敏になる。高畑勲の『かぐや姫の物語』と同じタイプのつくりだ。テーマ的にも、主人公の目線にカメラを乗せてつくるドキドキ型には適さない。原作の力やつくる側の意志を強く感じる演出のため、おそらく、大きな感想の差はでにくいだろうが、どのシーンが心に残り描写から何を汲み取るかには幅がありそうだ。ゆるやかに長い時間を過ごした感覚になるが、良いシークエンスが数多くポンポン入ってくる。心があたたまるくだり、くすっと笑えるくだり、息を飲むシーン、泣いてしまうようなやりきれなさを覚えるシーン。絵も話もどんどん進み、動く。

 

 わたしは、最後のすずの「海の向こうからの大豆…」のセリフがよくわからなかったのでネットで少し調べました。当時朝鮮で不作だったにも関わらず、朝鮮で作った米を日本にまわしていたのですって。「台湾や朝鮮の米」。「満州の大豆」。

空襲の描写。これも、少しだけ検索したところによると、片渕監督の得意分野らしく、かなりリアルなんですって。映画をみていると、飛行機の種類が色々あって、爆弾の種類も色々あって、すずたちは講習会で勉強済みだから名前がわかるものもあれば、なんだあれみたことない、というのもある。破片がとんでくるやつ、火が落ちてくるやつ、後から時間差で爆発するやつ。B29は 高く飛ぶらしいです。わたしはそこまでよくわからないのだが、絵の中でもきっと高く飛んでいたのだろう。日本軍の飛行機はそこまでの高度はでない、とかがあるらしい。

 

わからないなりに、晴れた日の運動会の朝みたいな花火がバンバン上がって、空に絵を描くみたいに煙が、戦闘機が、爆弾が……一回目のお昼の空襲、すずの「絵の具がほしい」というセリフに、花森の「どんな前衛美術もついに及ばない」という表現を思い出した。不謹慎な感じはしなかった。たぶんわたしもああいうとき、そのような言葉を浮かべそうな気がする。あんなものいきなりみても、例えようがよくわからないだろう。その場にいても自分から遠い出来事のような気もしてしまったりして、そのうち飽きたような態度をとったりもするのかもしれない。立ち尽くし空をみるすずの後ろから、こちらは映画館の赤い椅子に座って、「花森の〈戦場〉を読んで驚いた景色が、いまアニメーションになってスクリーンに映っているのだろうか…」、と思いながらみていた。

庶民の目から見た戦争を記録に残した、暮しの手帖1世紀96号。〈戦場〉の花森の写真と言葉は、とても強い。独特で、シンプルで、訴えかけるものがとてつもなくて、でも、読んでしまう。語り口の率直さが、こちらを構えさせないので、よくわからないよく知らない状態でも、受け止めることができる。以前、世田谷美術館のコレクション展で〈見よぼくら一銭五厘の旗〉をはじめて読んだときも、そりゃあ随分驚いた。花森の表紙絵と、商品テストの写真をみに来たつもりの展示でこの詩のようなものに出くわして、え、どうしようこれはすごいやと…。あの詩のような散文のような言葉をなんといったらいいのかわからないけれど、物語として知るのともジャーナリズムとして知るのとも、角度がちがうからだろうか。心の中のまだ切られたことがないような場所を斬られたような気がして、ペンはこのように剣になるのかぁとよくわからないことを考えながら帰ってきた。みてきたものをひとに伝えようとして、たしかあの時、ぜんぜん失敗したのであった。伝えるって難しい。(今ちょうど世田谷美術館で花森展をやっているので、ぜひみなさま行ってください。)

 

この世界の片隅に」は、戦争の話だけれども、ひとにおすすめだよーと言いやすいし、みやすい。わたしの個人的な好みのポイントとしては、自分の子供の頃のことを思い出すような匂いがあるところかもしれない。(繋がりはちょっとまだよく考えきっていないのだけど、暮しの手帖もなんだか、自分の子供時代を思い出すようなところがあって好き。)

大きな籠や袋を背中に担いだ人さらいのこと考えたり、座敷童のこと考えたり。もしそれらがでてきたらこう動こう、と常日頃から想像していたり。冒頭の『かなしくてやりきれない』から(パッチギ、好きだった)人さらい座敷童子、あとそうだ、海にウサギが走ること。海が荒れてきて、小さな波の先が白く立つ状態を「ウサギが走る」と呼ぶことを、子供の頃、積丹の岬で教えてもらったことがある。海自体が珍しかったこともあって、漁師さんからとんでもなく素敵な秘密を教わったと思った。

それから、最後の止め画、海の方をみてこちらに背を向ける人物たちの後ろ、観客に一番近いところに猫がいる。猫や鷺や動物は、描写されていない間も、ずっとどこかで暮していた。ちょうちょやトンボやカブトムシや、家の中まで列で入ってくるアリ達も。大人たちがなにをどうしていようと、子供のころは関係なくいられたことを思い出す。子供のわたしは世界の端っこのほうで、人間たちとは別なルールの管理下にあったから、たいていいつも好きなだけぼーっとしていた。何に守られているのかもよくわからないままに。ようわからんことをしている人間たちより、コオロギや朝露に濡れるくもの巣やアオガエル、かたつむりけむし、ショウユバッタのほうが身近だった。人の営みとはちがうルールでまわる、自然の諸々。粛々と四季は巡る。人間の戦争やそれにともなう各種の大騒ぎは、虫や動物や草や木にとって、知らんこっちゃないことだ。(本当は、小さな子供達にとっても、ごく一部を除くたくさんの大人たちにとっても、同じように知らんこっちゃないと言えたらよいことだ。)

絵を描く、ということも思い出した。自分なりには気に入っていたり、学校の先生に褒めてもらったりもしていたなぁと。すずちゃんみたいに上手ではないし、あんなに可愛く素直に照れたりはしていなかったろうけれど。子供の頃って、手を使ってなにやらいろいろ作っていたものだ。草花の汁で色水を作ったり、泥こねたり、お墓掘ったり。周りにわらわらと家族やら近所の人やらがいることも、もっと当たり前だったような気がする。おとなになった今、ほとんど何も作り出さないわたしの手だけれども、いつからこんなに自分の手を信用しなくなったのだっけ。いつから大量の同胞と大量の食べ物がうとましく感じられるようになったんだっけ。いわむらかずおの14ひきシリーズあんなに読んでたのに、今はもう14匹分の朝ごはんとか考えるだにこわい。鍋いっぱいのシチューこわい。それをつくる自分という役割、こわい。なんだろうかこの恐怖は。

すずたちの防空壕をみんなで掘るところや、団欒ごはんのシーンで、「おとうさんおかあさんおじいちゃんおばあちゃんそしてきょうだいじゅっぴき、ぼくらはみんなで14ひきかぞく」というフレーズを思い出した。なんかちょっとそういうの、悪くないよなと、思った。

大人になるということは。もう一度自分のいる世界を、選択し直すということかもしれない。どんな世界であっても。自分の意志によって。

  

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監督・脚本:片渕須直、原作:こうの史代、企画:丸山正雄、監督補・画面構成:浦谷千恵、キャラクターデザイン・作画監督松原秀典美術監督:林孝輔、色彩設計:坂本いづみ、動画検査:大島明子、撮影監督:熊澤祐哉、編集:木村佳史子、音響効果:柴崎憲治、録音調整:小原吉男、プロデューサー:真木太郎、制作統括:GENCO、音楽:コトリンゴ、アニメーション制作:MAPPA 、声の出演:のん 細谷佳正 稲葉菜月 尾身美詞 小野大輔 潘めぐみ 岩井七世 / 澁谷天外 ほか。