Starring: my name

ごらんになりましたか

かぐや姫の物語 感想途中 -山から降りてきた狸とか

f:id:monemor:20170312130448j:plain

わかったようなわからないような気持ちで、1回みおわり、面白かったーと2回目、好きだわあと3回みた。4回5回、思い出してまたみたいなぁとおもう。

2013年11月に公開されて、レンタルのジブリコーナーに行けば間違いなくもういつでもみられます。映画館でかからないかな。興行収入のこと調べたら、DVD視聴だったことが悔やまれる。

 

当初は同時公開にする予定だったらしい『風立ちぬ』(2013年7月公開、ネットによると120億くらい)はまわりのひとたちと感想の話をした記憶がある。『かぐや姫の物語』(20億くらい)は、比べるとやはり見てるひとの数、ちがったのかな‥。そして、わたしがみんなの感想を知りたくなるのは『かぐや姫の物語』のような作品。「ねぇ、あなたはどうおもった?」をききたくなる。ネットに、たくさんの個人の感想があれば嬉しい。人それぞれの思いや解釈の余地の広いタイプの作品の中でも、特に素晴らしいもののひとつだから、みんなで各々、おもいおもいの話をしたい。

制作期間の8年、現場はどんなに考え抜いて、協力し合ったことだろう。出来上がりが予定より遅れようと制作費が沢山かかろうと(50億くらいらしい)、こういう種類の作品を世に出せたスタジオジブリは偉大だ。やっぱりジブリってすごいのだ。鈴木敏夫の判断と、高畑勲の仕事にはほんとうに、いち視聴者として感謝とかびっくりさなどを感じる。心意気ってやつに感服してしまう。おじいたち、かぁっこいいよ、なあ……

 

「思い入れる映画」と「思いやる映画」。ジブリを語る際の頻出ワードである。高畑勲は自分では絵を描かない監督。独特の存在感と立ち位置で、「思いやる映画」をつくる名手だ。自ら言葉にして、意識的にそういうものづくりをしているところがまたかっこいい。コンセプチュアルなことはよいことだと、パクさんの仕事をみると心から納得する。気高いインテリの優れた能書き最高である。技術によってコンセプトがわかりやすく届くということは、当たり前のようでいて体感するとまぁ、喜びだもの。

「ドキドキハラハラ」のドキドキとハラハラは、視点のあり方が違う。「ドキドキ」は一人称の共有から生まれる。カメラが主人公と同じ目線にあるがため、みている方は主人公に同化・共感して「ドキドキ」する。「ハラハラ」は三人称である。主人公がまだ気付いていない、もう少し先に仕掛けられた落とし穴が、視聴者には見えている。視聴者は、どうやって主人公はこの危機を回避するのだろう、よもやこのまま落ちてしまうのかとやきもきする。そしてその物語から主人公の気持ちを思いやるうちに、視聴者自身の体験や心情が思い出されてくる。

最近のアニメは「ドキドキ」させるばかりだから、世の中にもっと「ハラハラ」させるアニメを増やそうぜというのが、パクさんの考えであるそうだ(2014年1月号の美術手帖のインタビューによる)。

かぐや姫の物語』は、ハラハラ型の作品だ。かぐやは、かぐやの目で世界を見て、成長していく。観客は、そのかぐやを一歩引いた視点から追うこととなり、その思いを察しながらみていくことになる。この距離感が、解釈の余地となる。プロデューサー西村義明の言葉が素晴らしく、わかりやすいので引用する。「かぐやの抱えているものと自分が抱えているものが、ある種共鳴したときに、その物語が自分の中で息づいてくる。この作品には、自分を投影し、共鳴できる要素がいろんなところにちりばめられています。だから、痛々しいほどの主人公の何かが伝わってくるんですよ。」

 

痛々しいほどの何か……それは、みる人各々で異なる「何か」だろう。かぐやと月との関係性や、恋うる気持ちの喜び、諦めからくる無気力感。かぐやと父との関係性だったり、かぐやと母との関係性だったり。心無い他人による役割の押し付けだったり。誰かのために自分が失われていくことや、自分にとってその誰かが悪者とは限らないということの、どうしようもなさ。怒りの矛先を、どこにも向けられない孤独感と閉塞。

わたしは1回目の視聴はぼんやりと過ぎたのだけど、これはもっとなにかありそう、とおもってみた2回目、痛かった。予告にも使われている、ラフさを迫力とした橋本晋治の筆描きにより、かぐやが疾走するシーン。かぐやが疾走しなければならなかった状況の描写。うつくしく、悲しかった。わたしの個人的な体験が、かぐやの置かれた状況と重なった。あのときのかぐやは、かぐやであり、わたしであり、あのこたちであった。一度そのスイッチ、高畑勲の「ハラハラ」する「思いやり」の観賞方法が身体に入ってからは、かぐやの思いが、随所で心に突き刺さるようだった。

 

疾走の原因となる、かぐやのお祝いのシーンでのくだり。あの状況や感情を、言葉で表すことは難しい。いまの日本の感じからすると、ちょっとしたタブーなのだ。

自分の身に起きたとしても、気の置けない人以外に伝えることは、だいたい諦めてしまう。会話としてトライするときには、相手の様子をうかがい、反応によっては落とし所を変える用意をしつつ、慎重に進める。同じような立場に置かれ、同じような感情を持ったことのある人は、きっと少なくないはずだ。というか、本質的な部分ならありふれたできごとだ。なのに、語るための適切な言葉が奪われており、共有しにくい。気にするほうが「悪かったり」「未熟だったり」、「自意識が過剰だったり考えすぎだったり」、「恵まれてるってことじゃない傲慢なの?」だったり、「相手に悪気がないのに気にするのは性格悪いよ許してあげなよ」だったりするらしいので。ただ、そのような扱いをされた方からすると、なんてことないことではけしてなく、自分が損なわれたような感覚を持ち、傷つく。言語化できず共有しにくい傷は、自分の中でも認識しにくく、治りにくい。どうしようもなくでも受け入れることができずにただ傷を増やすよりも、せめて、あんなふうに走れたら。

ある種の人にはまったく「見えない」らしいあの状況。見えても「見えなかったことにする」のが賢いとされ、押し負けてしまう、あの。

アニメーションならば、あのように表現できるのか。アニメの到達点といえるはず、走るというシンプルな動作の演出としては驚くほどの。そしてそれに至るまでの描写の、過不足のなさ、的確さたるや。表現になったということは、可視化され、共有できるということだ。この国のおじいちゃん(78才)がそれを成したということ。高畑勲のものを見る目、考える回路とはまったく、どういうことなんだろうか。想像力と、技術でもって、伝えようとするその力は一体。

 

高畑勲て‥‥と思い出したらば、『太陽の王子 ホルスの大冒険』『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』『じゃりん子チエ 劇場版』『おもいでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』『ホーホケキョ となりの山田くん』……あぁ、大好きである。ひとつずつ取り上げてみたいけれど、またの機会に。でも、こうして挙げてみると、その軌跡が少し、見えるような気がする。テーマごと手を抜かず、最大限効率のいい表現方法を探る人だ。一つ一つの作品に、やろうとしたことと、成し遂げた表現があり、ファンがいる。『かぐや姫の物語』は、その先にある晩年の集大成ってやつだろう。本当に素晴らしい仕事……同じ国、同じ時に生きていることを頼もしく感じる。)

 

余談ですが、高畑勲の『赤毛のアン』、ミア・ファローをイメージしていたらしいです。少女の頃の彼女の、丸高帽を被って長い髪を下ろした写真をみたら、とても可愛らしくて、元気かつアンニュイな不思議な魅力。

 

********************************************

かぐや姫の物語(キャッチコピー:姫の犯した罪と罰

制作:氏家齊一郎/原作:『竹取物語』/原案・脚本・監督:高畑勲/脚本:坂口理子/音楽:久石譲/プロデューサー:西村義明/人物造形・作画設計:田辺修/美術:男鹿和雄/作画監督小西賢一    配給:東宝 2013年11月23日公開